こころのアルゴリズム、私にもください

こころのアルゴリズム、私にもください

バーチャル発達障害者のおかしな人工知能論

「まだ怒ってるの?」に抱いた違和感の正体

遠い昔、小学生の頃に友人と交わした会話がずっと頭の片隅に引っかかっていました。

その違和感の正体が「感情に対する認識の違い」ではないかと思い当たったのは、つい最近のこと。

ひとつの仮説におつきあいいただけると、なもな、とってもうれしいです!

 「まだ怒ってるの?」ときかれてますます腹が立った

Nちゃんは、保育園から一緒だったものの、小学校高学年で急に親密になった友人です。

ある日の休み時間、私はNちゃんに腹をたてていました。

(理由はわかりませんがきっと些細なことだったのでしょう。つくづく都合の良い私の脳みそ…)

 

今思えば、仲直りのために自分から何かしらの働きかけができたはずです。

でも私は何もしなかった。

ただただ受身で、Nちゃんが謝ってくれるなどして私の名誉が回復することを待っていました。

 

しばらく時間が経った後、Nちゃんが私に話しかけてきました。

「なもちゃん、まだ怒ってるの?」

 

それを聞いて、私はますます腹が立ちました。

「Nちゃんが原因で私が怒っているのに、なぜ何もしないで私の怒りがおさまると思うのだろう?!」

しかし私にはそれを口に出すほどの度胸もありませんでした。

きっと私は、さらに時間が経過したのち、なし崩し的に怒りをなかったことにしていったのだろうと思います。

怒りは移りゆくもの?それとも持続するもの?

このNちゃんと私の怒りに関する認識のズレを、私は釈然としないまま「性格の違い」で片づけようとしていました。

(成人後、発達障害の診断を受けてからは、このズレについて「とにかく私の方がおかしい、相手が正常」と思い込む傾向が強まりました)

 

しかし、最近 人間のこころを人工知能と照らし合わせて考えるようになった私に一つの仮説が浮かびました。

『一度生じた怒りは、新たな事実(謝罪や名誉の回復)で上書きされない限り消えない』という姿勢をとるのが私で、

『怒りは時間とともに消えていく』という姿勢をとるのがNちゃんなのでは?」

 

もしそうであれば、Nちゃんは再び私と楽しくすごしたいと願い、私の怒りが消えるのを待っていてくれたことになります。

その確認としての「まだ怒ってるの?」は、私にとって喜ばしいものだったのですね。

ほっとすると同時に、私ってバカだなぁと思います。

「人間のルールベースシステム」に逃げ道をつくる

 以前の記事で、人工知能のルールベースシステムの考え方をもとに、人間の認知ー行動システムを図に表すことに挑戦しました。

 

人工知能のルールベースシステムを人間にあてはめてみた - こころのアルゴリズム、私にもください

 

その時に発表したのがこちらの図です。

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Nちゃんにもらった長い長い宿題に取り組んだ私は、この図に加えるべき項目に気づきました。

改定した図がこちらです▼▼▼

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どこが変わったかわかりましたか?

 

 

図の右上に注目してください。

知覚した情報の行き先として、

「脳内ルール」のほかに

「自分本位の受け皿(仮称)」というものをつくりました。

 

もし、知覚した情報が

「Nちゃんが言うには なもなは 不美人だ」

といった、私にとって受け入れ難いものだったとします。

改定前の図に従うのならば、受け入れ難い情報もルールに組み入れて対処しなければなりません。

 

しかし、「自分本位の受け皿」があれば、「なもなは 不美人だ」という情報は Nちゃんの個人的意見であり、自分には不要だとして受け流すという選択肢ができます。

ネット上のネタとして有名な

「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」

という態度がこれにあたりますね。

 

「自分本位の受け皿」で受けた「貴重なご意見(棒)」は、「Nちゃんの考え」として保持していてもいいし、不要で不快なら排出してきれいさっぱり忘れてしまってもいいでしょう。

感情をルールベースに入れこむと苦しいのかもしれない

前述した、私が考える「怒り」の生成から消滅までをルールベースの図に照らして表現すると下記のようになります。

1:からだのそとで【私の怒りのきっかけとなる出来事】がおきたことを知覚する

2:こころに怒りが生じるとともに、何らかの反応をする(怒りを表明したり隠したり)

3:からだのそとで新たに【私の怒りを打ち消すような出来事】がおきたことを知覚する

4:こころの怒りが消える

 

ポイントは、怒りが消えるためにはからだのそとから「新たな出来事」を知覚することが必要だということです。

「新たな出来事」で「怒りのきっかけとなる出来事」が上書きされないと、私は真の意味で怒りを手放すことはできません。

 

しかし実際は、怒りをもたらした相手がきっぱりと謝ってきたり、すかさず誰かがフォローしてくれるということは殆どありませんよね。

事実の上書きがない限り怒りを手放せないという構えでいると、人生は苦しいものになります。

なぜなら、往々にして時の経過とともに周囲は私の怒りを忘れ、私の怒りは恨みへと変わっていくからです。

 

人間らしい感情も、コンピュータと同じようにルールベースシステムにきっちりはめこんでしまう。

発達障害当事者がときどき粘着質と評されてしまう背景には、このような構造があるのではないでしょうか。

 

実をいうと、個人的には、怒りは「期待」というルールベースに近い性質を含んでいると考えています。

しかしそれでも、怒りを含めた感情というゆらぎのあるものは、脳内ルールベースから外れた「自分本位の受け皿」で処理した方が楽に生きられる予感がしています。

つまり、「打ち消す出来事」がなくても怒りを収めていいんです。

それが、「赦す」ということなのかもしれませんね。 

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さいごまでおつきあいいただき、なもなはとってもとってもうれしいです!
記事をよんだ今、あなたはどんな気分ですか?
もっと吸収したいあなたは、こちらの記事をあわせてお読みください。

namo-na.hatenablog.comそれとも あなたも語りたくなった?どうぞいってらっしゃい。
またお会いしましょうね▼▼▼