生きづらさをかかえる人の訴えが伝わらない理由をかんがえた
こんにちは。発達障害当事者のなもなです。
今回は、私を含めた 生きづらさをかかえる人がその苦しみを他者につたえようとしてもなかなかうまくいかないことについて、自分の体感をもとに推論してみました。
重く、私にとって時期尚早だと思っていたテーマなので、読みにくいかもしれません。(なごむかな、と思って脈絡もなくネコを描いてみました)
それでもお読みくださるのなら、なもな、とってもうれしいです!
語り口の違い
「もらったお中元を扱いきれなかった」という例でかんがえてみましょう。
「苦手な食べ物をお中元にいただいて、困った」
と話せば相手にも伝わるし、共感してもらえることもあるでしょう。
しかし、生きづらさをかかえる人は
「迷惑だ。そもそもお中元は無駄だからやめるべきだ」
と述べてしまうのではないでしょうか。
ああ、私もこういう言い方してたかも。
勘違いしている感がでちゃってて恥ずかしいです。
生きづらさの源と、それを語れない理由は重なっている
当サイトは、こころの中に「主体的な小人」という価値基準や、「自分だけの世界」という評価の視点をもつことの大切さをつたえるのが使命です。
くわしくはこちらをごらんください。
生きづらさをかかえる人は、この「主体的な小人」や「自分だけの世界」の存在を知りません。もしくは許していません。
つまり、その人は、個人的な体験とそれにともなう感じ方や感情を、他者にきいてもらうだけの価値がないものだと思っています。
エビデンスとナラティブ
この、個人的な体験談のことをちょっとかたい言葉をつかって「ナラティブ(当事者がその経験について語ること)」といいます。
ナラティブと対照的な言葉が「エビデンス(科学的根拠)」です。
用語についてはこちらを参考にしました。
エビデンスのパラドックス
再びまとめます。
生きづらさをかかえる人は、生きづらさについて語りたい。
しかし、主体性を悪いものだと信じているので、ナラティブとして語ることができません。
そういう人がナラティブにならないよう言葉を選ぶと、まるでエビデンスであるかのような語調になります。
よほどの権威がないかぎり、「語りが即エビデンスとなる」ことはありえないのですが、これが生きづらい人にとっての正義なのです。
話し手と受け手のすれ違い
ここで困ったことがおこります。
1:
生きづらい人がエビデンスとして話しても、所詮は個人の発言。
受け手はそれをナラティブだと認識します。
そうなると、「ナラティブのはずなのに偉そうな語調」が受け手の鼻につくことがあります。
2:
生きづらい人は、当事者なのに研究者のようにふるまいがちです。
その話の中には他人事のように「私は」という言葉がよく出てきます。
しかし、それは主観で話しているということではありません。
エビデンスの正確性を期すために、他者がどうであるか確認できないことについては「私は」と表現するしかないのです。
そうは言ってもこんな複雑な理論が伝わるはずもなく、受け手に残るのは違和感と混乱です。
3:
生きづらい人がナラティブの語り方を知らない場合、プライベートな場でもエビデンス口調で話してしまいます。
そうなると、親しい相手に本当の苦しみが伝わりません。
実りある対話のために
生きづらさをかかえる人には、まず、他の人とは違う感じ方や意見が存在していいことを伝えたいですね。
そして、親しい間柄であれば、感じたことを個人として自由に語っていいことも。
ただし、その際には相手の心情への配慮が不可欠です。
それらを順を追って体感し、理解できるようになるといいですね。
そして、生きづらさを訴える人ににムカついてしまう人にとっても、この記事が理解の一助となることをこころから願っています。
ーーーーーーーーーーーーーー
おつかれさまでした。
さいごまでおつきあいいただき、なもなはとってもとってもうれしいです!
記事をよんだ今、あなたはどんな気分ですか?
もっと吸収したいあなたは、こちらの記事をあわせてお読みください。
それとも あなたも語りたくなった?どうぞいってらっしゃい。
↓↓↓またお会いしましょうね。