こころのアルゴリズム、私にもください

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バーチャル発達障害者のおかしな人工知能論

運命から自由になるため、祖父の不幸と向き合ってきた

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こんにちは。短い秋が愛おしい、なもなです。

今回は、私と母、そして母方の祖父にまつわるお話です。

すこし重い内容ですが、おつきあいいただけると、なもな、とってもうれしいです!

 理由はわからないがとにかく辛かった子供時代

私は、見合い結婚をした自営業の両親の元にうまれました。

自営業なので 家族が共にいる時間は多いものの、そこに絆や愛情を感じたことはありませんでした。

 

たとえば、私は幼い頃、親に自分の希望を満たしてもらった記憶がありません。

ほめられたこともありません。

 

それは、よくわからないながらもとても辛く、孤独な日々でした。

「私がかわいくない子だから」だと結論づけてその不安を消していました。

祖父が事故死したから私が辛くても仕方ない

また、私が物心ついたとき、母方の祖父はいませんでした。

それがあたりまえだったので不思議にもおもっていなかったのですが、私が小学校高学年くらいのとき、はじめて母から祖父の死についてくわしく知らされました。

 

私の母方の祖父は生前、営業の仕事をしていたそうです。

そして、得意先の経営者に気に入られ、誘われた旅先のバス事故で命を落としていたのです。

それは、私がうまれるずっと前のことです。

 

事故当時、母は当時でいう「結婚適齢期」をやや過ぎた年頃だったそうです。

母は

「父親が事故死したうえに娘が行き遅れだと、母親(私の祖母)の立場がない」

と言いますが、私にはその感覚がまったくわかりません。

 

ともかく、それで母は見合いをし、父と結婚したのです。

 

祖父は死にたくないのに死んでしまったから悪くない。

母は父親に死なれて、急いで結婚せざるを得なかったから悪くない。

誰も悪くないから、私は辛くても我慢しなければいけないんだ。

ずっと、本気で、そう思っていました。

事故―結婚―不仲 にひとつのストーリーとしての整合性を感じていました。

三代にわたる運命と向き合う時がやってきた

事故現場となった観光地には、私も幼いころに行ったことがありました。

昨年 久々に訪れたあと、シラカバの並木道で唐突に祖父のことが思い出され、涙がとまらなくなりました。

 

そのとき湧き出た感情は「怒り」でした。

先程のストーリーにどうしても納得できなかったのです。

祖父が死んだことでさえやり切れないのに、なぜ輪をかけて不幸にならなければいけないのか。

 

私は、母からの伝聞ではなく 自分の目と身体で祖父の死としっかり向き合おうと決心しました。

そして、一個人として 事故現場に花をたむける準備をはじめました。

 

先だってインターネットで現場を調べましたが、公式の記録はありませんでした。

わずかにヒットした有志の方の手記をもとに、当日は大体の場所に見当をつけた状態で出発しました。

 

きっと本心ではまだ祖父の死に向き合うことが怖くて 面倒で 恥ずかしいと思っていたのでしょう。

前日の夜になってバス会社に問い合わせることを思いつきましたが、結局間に合いませんでした。 

祖父の最期の地へ

夫が運転してくれた車が目的の観光地に近づきます。

そこには弔いに行くはずなのに、ワクワクしてしまう自分がいました。

ああ、きっと祖父たちもこんな気持ちだったんだろう。

その後の悲劇を思うと無念でなりません。

 

事前に推測した現場まで来たら、まず私と夫だけで、石碑などがないか探しました。

しかし、見つけることができません。

細い道を通りすぎ、祖父たちの目的地だった観光地に到着してしまいました。

 

どうにかして事故現場を知りたくて、私は勇気をだして観光案内所でたずねました。

「私、あのバス事故の遺族なんです」

話の流れで、はじめて自分のことを「遺族」と称しました。

ドキッとしたと共に、私と事故の関係をあらわす言葉をみつけた静かな喜びもそこにはありました。

 

観光案内所の若いスタッフの方は、やさしく私の話を聞いてくれました。

そして、山の先輩から伝えられたという事故現場の目印を教えてくれました。

 

そのヒントを元に再度現場を探るも、「ここだ」という確信がもてません。

いつしか山道の入口まで戻ってきてしまいました。

 

「これ以上人に尋ねる勇気は出せない。忘れられたり嫌な顔をされたら立ち直れない」

躊躇する私をみて、今度は夫が山道の手前の案内所で尋ねてくれました。

すると、スタッフの方はご自身のお母さんに電話をかけて当時のことを聞いてくれました。

何十年も前の記憶ですが、たしかに当時を知る人の声です。

お二人のやさしさに感激し、再度現場にもどりました。

 

その日は結局、事故が起きた地点はわかりませんでした。

そのため、自分なりにしっくりきた場所にお花を置いて手を合わせ、帰路につきました。

因果関係から自由になる

 後日、バス会社から詳細な事故現場の情報をいただきました。

その企業にも当時を知る人は既にいないかもしれませんが、しっかりと事故の記録を引き継いでくださっていました。

誠実にご対応いただき、感謝しています。

 

いただいた情報を元に、今後 気が向いたら再び現地を訪れようと思います。

というのは、今回の旅によって、私はもう運命を脱ぎ捨てることができると確信できたからです。

 

確かに、祖父の事故は不幸でした。無念でした。

そのかなしみを私は今回はじめてこころの底から味わいました。

 

そして、次に私のこころにわきあがったのは、

「祖父が事故死したから不幸が連鎖しているのではない。

 祖父が事故死したけれど、のこされた母たち家族は一所懸命生きてきたんだ」

という気持ちです。

 

私と母方の従兄弟は年齢が近く、そんな私たちがごく小さい頃、祖母の音頭で当時珍しかったラジカセでおのおのの歌を録音した幸せな思い出があります。

その記憶がふっとわきあがってきました。

事故から十年近く経ち、母の実家に穏やかな幸せがもどってきたときのことです。

 

かなしみも、よろこびも、すべてが一紡ぎの 祖父と私をつなぐ絆になりました。

これから私は、私の人生をあゆんでいけます。


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さいごまでおつきあいいただき、なもなはとってもとってもうれしいです!
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もっと吸収したいあなたは、こちらの記事をあわせてお読みください。

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またお会いしましょうね▼▼▼