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バーチャル発達障害者のおかしな人工知能論

発達障害の生きづらさをサッカーにたとえてみたら

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こんにちは、発達障害当事者の なもな です。

 

発達障害当時者のかかえる生きづらさを、どう表現したら伝わるだろうか。

私は、そんなことをずっと考えています。

たとえば、

発達障害当事者はパスをしてはいけないと思い込みながらサッカーをしているようなもの」

と表現したら、わかりやすいでしょうか。

私の思うことをかいてみました。

おつきあいいただけると、なもな、とってもうれしいです!

発達障害当事者の生きづらさとは

広く同意される意見ではないかもしれませんが、私は

発達障害当事者の生きづらさのみなもとは、主体的な自我がないこと

だと考えています。

 

ありのままの自分と 学習した「世間一般」の価値基準が合わなくてしんどい時って、ありますよね。

そんな時でも 主体的な自我をふるい立たせて自分を貫けば、「世間一般」の価値基準を投げてしまってもいいんです。

他者に危害をあたえないかぎり、反則にはなりません。

 

発達障害当事者の生きる世界をサッカーに例えると

しかし、発達障害当事者はそのような選択肢はないと思い込んでいる。

そして、自ら大きなハンデを背負って生きているといえるのではないでしょうか。

そのハンデの大きさたるや、例えるなら

 

・定型発達者の生きる世界:パスやドリブルを駆使してサッカーをしている

発達障害者の生きる世界:パスをしてはいけないと思い込みながらサッカーをしている

 

くらいの違いがあると思います。 

いかがでしょうか。

その大変さ、想像がつきますか?

定型発達者も発達障害者も、おたがいのことがわからない

このように、定型発達者と発達障害者は異なるルールを念頭においたまま一緒にサッカーをしている(同じ世界を生きている)ので、

 

・外側からは 同一ルールでたたかっているように見える

・定型発達者は発達障害者がなにに苦しんでいるかわからない

発達障害当事者はなかなか得点(成功体験)できない

発達障害当事者はドリブルに必死で、周囲がパス回しをしていることに気づかない

(周囲の人がなぜそんなにうまくできるのか不思議でしかたない)

 

 といったことがおきます。

 

そして、それに気づかないまま必死にプレーをつづけるうちに、発達障害当事者は 別のルールをおかしてしまったり、ふるまいが反スポーツ的行為とみなされイエローカード示されてしまうことがあります。

これは誰にとっても好ましいことではありませんよね。

 

 本来のルールを知っても、適応には時間がかかる

もし本当に 発達障害当事者の生きづらさの原因が主体的な自我の欠落であるならば、それを取り戻すことによって当事者の苦しみはやわらぎ、きもちよいプレーができるようになるでしょう。

 

そして、その通りだったとき、定型発達の方にお願いしたいことがあります。

当事者の方が(その人にとって新しい/他の人にとっては本来の)ルールになじむまでの間、見守っていてほしいのです。

 

パスを知らずにサッカーをしていた人がパスを知ったら、パスのやり方をおぼえる他に、ゲームそのものの運び方を一から組み立て直す必要がある。

これは自然なことではないでしょうか。

 

こんなことが実現すれば、発達障害のある人もない人もフェアにたたかえる日がやってくる、私はそう信じています。

 

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さいごまでおつきあいいただき、なもなはとってもとってもうれしいです!

そして、ここでお知らせがあります!

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